近鉄バファローズ球団の歴史藤井寺球場 (1軍は当初1983年までは準本拠地、1984年-1996年までメイン本拠地。1997-1999年まで再び準本拠地。2軍は創設当初から本拠地だった) 1958-1983年のメイン本拠地・日生球場 1997-2004年の本拠・大阪ドーム 1949年、近畿日本鉄道を親会社とする近鉄パールス(設立時は近鉄本社、後にグループ会社近鉄興業が経営を担当。移管時期は不明)が佐伯勇の鶴の一声で結成。 近鉄にとっては、南海鉄道(現南海電気鉄道)合併当時の1944年-1947年(近畿日本→近畿グレートリング、現福岡ソフトバンクホークス)以来の球団運営である。 近鉄は大阪電気軌道時代よりラグビー部(現 近鉄ライナーズ)を有していたが、後の佐伯の述懐に依れば「ラグビーでは儲からないから」と当時隆盛を極めていた野球経営に食指を伸ばしたという。 1949年11月26日にパ・リーグに加盟。加盟申請は早かったもののチーム編成が遅れたため、他球団と未契約の東京六大学出身者(監督藤田省三始め、関根潤三など法政大学勢が多かった為、チーム内に近鉄法友会という懇親組織が存在した)を中心に編成したが、選手層が薄く長らく下位に低迷。 1959年、チーム建て直しのため、現役時代「猛牛」と呼ばれた千葉茂を監督に招聘しチーム名を近鉄バファローに改名。チーム改革はなかなか進まず1961年にはシーズン最多記録となる103敗を喫した(2007年現在でも、その記録は更新されていない)。千葉の退陣を機に近鉄バファローズに改称。別当薫、岩本義行、そして生え抜きの小玉明利に監督を任せるが結果は出ず。パ・リーグ他球団が優勝を経験する中、万年Bクラス・最下位の近鉄は「チカ鉄(近をチカと読ませ、地下鉄に掛けたもの。つまり地下に潜りっぱなしの低迷という意味)」「パ・リーグのお荷物」などと揶揄された。 1967年4月1日、近鉄野球株式会社を法人として設立。近鉄興業から経営を移管。 1969年、前年より監督の三原脩の指揮の下、初めて2位に躍進。その後はAクラスとBクラスを往復した。 1979年、選手育成が実を結び西本幸雄監督の下で初のリーグ優勝。翌1980年は飛ぶボールの効果もあり、日本記録(当時)となるシーズンチーム本塁打239本を記録(但し被本塁打は251本)し、リーグ2連覇を成し遂げた。日本シリーズはいずれも広島東洋カープと対戦するが、ともに3勝4敗で日本一に輝くことは出来なかった(特に1979年の日本シリーズ第7戦は9回裏の近鉄の攻撃が江夏の21球と呼ばれ、球史に残る名勝負となった)。 1988年、就任1年目の仰木彬監督の下、前年までリーグ3連覇中の西武ライオンズと優勝争いを繰り広げるも、10月19日に川崎球場で行われたロッテオリオンズとのダブルヘッダー第2試合で引き分け。最終130試合目で無念のV逸(10.19)。 1989年も優勝争いに加わり、この時は西武、オリックス・ブレーブスとの三つ巴による、前年を上回る優勝争いの末、10月14日に129試合目で優勝決定。日本シリーズでは読売ジャイアンツに3連勝後4連敗を喫し、日本一ならず。 1997年、本拠地を大阪ドーム(現・京セラドーム大阪)に移転。 1999年に地元企業との提携、地元密着を目指し、チーム名を大阪近鉄バファローズに改称。また法人名も従来の近鉄野球株式会社から株式会社大阪近鉄バファローズに改称(その後、2003年1月に株式会社大阪バファローズに改称)。 2001年、圧倒的破壊力を誇る「いてまえ打線」で、4度目のリーグ優勝を達成。9月26日、大阪ドームでの対オリックス・ブルーウェーブ戦。北川博敏の代打逆転満塁サヨナラホームランでの優勝決定であった。同一監督(梨田昌孝)での前年最下位からの優勝は長嶋茂雄(読売ジャイアンツ)に次いで2人目で、パ・リーグでは初。防御率リーグ最下位(4.98)での優勝・2位チームへの負け越し10(ダイエーに9勝19敗)での優勝はともに史上初だった。日本シリーズではヤクルトスワローズに1勝4敗。またしても日本一を逃す。これが最後の優勝となった。 大阪ドーム移転後、選手の年俸が高騰。ドーム近辺に近鉄の路線が全く通っていないために会社の鉄道収入がなくなり(阪神なんば線は当時未開通)、観客動員数も増えなかった事もあり年間赤字が40億円にも昇った。2004年6月、山口昌紀社長(当時)により親会社である近鉄が経営上の理由でオリックスと合併する方向で準備を進めていることを発表する。選手会との労使交渉や球界再編問題にまで発展し、ファンを含む球界内外からの強い反発が起こるなど大きな波紋を呼んだ。8月10日に合併に関する基本合意書への調印が行われ、9月8日のオーナー会議でこの合併が正式に認められたため、このシーズンを最後に、日本一に輝くことなく55年の歴史に幕を閉じた。 チームの特徴 1990年代以前は外様監督が多く、仰木彬以前の生え抜き監督はプロ経験のない藤田省三と芥田武夫を除くと、加藤久幸と小玉明利の2人しかいなかった。仰木以降は鈴木啓示・佐々木恭介・梨田昌孝と生え抜き監督が続いたが、球団消滅により梨田が近鉄最後の監督となった。監督は「基本的に若手中心で」(補強はしない)というのを毎年命じられていた。 打線は「いてまえ打線」(大阪弁。共通語で「やってしまえ」の意)と呼ばれ、特にリーグ優勝した2001年にはチーム防御率4.98とリーグ最下位ながらチーム打率.280、チーム本塁打数211と他チームを圧倒し優勝をさらった。この年は3番のタフィ・ローズと4番の中村紀洋だけで101本、3~7番では実に165本もの本塁打を叩き出し話題となった。タフィ・ローズが本塁打王(55本)、中村が打点王(132打点)、主に5番に入ることが多かった礒部公一は得点圏打率1位(.417)の成績を残している。この年阪神監督・野村克也が自チームの貧打線に対し「(バックに)いてまえ打線があったら(グレッグ・ハンセルは)20勝している」というコメントを残したのも有名。1980年には前述のようにシーズン239本塁打の日本記録を打ち出すなど、本塁打の魅力をどこよりも認識させた球団であった。 野茂英雄、吉井理人、大塚晶則、中村紀洋など、多くの大リーガーを輩出している。 1970年前後に日生球場のナイター使用がプロ野球機構で問題になり、近鉄沿線の三重県や愛知県へのフランチャイズ移転も検討されたが、愛知県は中日ドラゴンズの保護地域であるため許可を得られず断念した(但し名古屋での公式戦は地方開催扱いで1999年まで行われていたが、これは近鉄の営業圏内であった事と、中京にパ球団を持たないリーグ事情も勘案されていた)。1973年に藤井寺球場のナイター工事が着手されたが、地元の反対で完成は11年後の1984年にずれこんだ。 日本一を経験していない球団では、最長の期間存続した。身売りの多いパ・リーグ球団としては、唯一親会社が変わらないまま歴史に幕を閉じた。 2004年9月、北海道で行われた世界ラリー選手権(WRC)、ラリージャパンに、「チームバファローズ コットンファクトリー」としてプジョー・206で参戦したが、リタイヤした。当時の監督・梨田昌孝がプジョーを愛車としていたことが縁であった。 最下位になったことが非常に多いチームであり、1950年の2リーグ分立以降では19回と、消滅したチームも含めて両リーグトップである。 伝統的に速球派投手に強く、技巧派投手に弱い傾向にある。代表例の一人が松坂大輔で、松坂は日本での8年間で近鉄に対し11勝15敗で防御率も最も悪く、球団別の成績で唯一近鉄にのみ負け越している。逆に、近鉄が苦手としていた投手に星野伸之や星野順治などの変化球投手が多く見られる。1989年の日本シリーズでも3連勝で迎えた第4戦で香田勲男に完封をされてシリーズの流れが変わってしまった。 近鉄在籍経験選手による日本シリーズのMVP獲得は、近鉄が日本一を経験しなかったので、長い間輩出されなかったが、2007年の日本シリーズで中村紀洋が中日で初めて達成した。 プロ野球に理解のないフロントの体質に関しては、不満を持つ選手も多かった。野茂英雄は、先発日に藤井寺球場の駐車場に車を止めたところ、近鉄本社の人間が来るので車を動かすことを要求されたり、契約更改の席で「熾烈な優勝争いをして2位に終わるのが一番」と言われたこともある。佐々木恭介は、入団後初めてグランドに集まった際、フロントの訓示で「お前達野球クラブの選手は」と言われ、頭に血が上ったと述懐している。「ドン・マネー事件」での外国人選手に対する待遇のみならず、監督に三原が就任する以前、近鉄選手の移動は列車では普通車のみ(当時西鉄等は2等車、後のグリーン車を既に利用していた)だったことからも、選手に対する待遇の悪さは伝統的なことであったといえる。 エピソード ロンゲストゲーム 1953年、近鉄はいずれも後楽園球場で開かれた2試合でロンゲストゲームを戦った。6月25日の対大映スターズ戦は19:13試合開始から当時のナイターの時限であった23:45での打ち切りまで4時間33分・延長22回を戦った(スコアは4-4の引き分け)。 それからわずか1ヵ月半も満たない8月9日には東急フライヤーズ戦のダブルヘッダー第1戦(当時は同一カードダブルヘッダーの第1試合はイニング制限なしで決着が付くまで行った)で今度は4時間46分・延長20回(5-4で近鉄勝ち)を戦い、その後引き続いて開催の第2試合は22:11試合開始。時限の23:45までプレーした(7回時間切れコールドゲームで3-3の引き分け)ため、2試合で合計6時間20分も戦った。 1954年10月10日には東映フライヤーズ戦(大阪)でパ・リーグの最長イニングレコードを記録した。この試合は0-0で迎えた延長23回に武智修の2塁打でチャンスを広げた近鉄が日下隆のスクイズでサヨナラ勝ちした。 1969年10月10日、日生球場でのロッテオリオンズ戦では第2試合で延長13回、22:20の時限オーバー、4-4の引き分けで打ち切られるまで、実に5時間15分の当時の史上最長試合時間記録を達成した。 サスペンデッドゲーム 通常サスペンデッドゲームは日没(現在は適用できない)や照明設備の故障など特殊な例以外考えられないことだが、1954年6月16日に中日スタジアムで開かれた東映フライヤーズ戦で2-4で敗れて試合終了したものの、7回表のインフィールドフライをめぐって近鉄側が猛抗議。結局問題のフライ以後の攻撃を一度無効として同年8月10日に同球場で7回以後の攻撃を続行するという変則的なサスペンデッドゲームが行われた。サスペンデッド後の試合は両チームとも得点が入らず、結局1-4で敗戦した。 大逆転でチーム消滅回避 これは、大映のオーナー永田雅一が上記の提案をした人物である。1957年シーズン中に、パ・リーグオーナー会議で「今シーズン最下位となったチームは、解散するか合併する」ことが決定した。これは当時パ・リーグが7球団だったために非常にカードが組みにくかったことが原因であり(奇数であるため必ず対戦できないチームが一つできる)、当時最下位を独走していた近鉄パールスのオーナー・佐伯勇はやむを得ず了承した(解散か合併する基準が最下位である案がシーズン中に承認される、と言うのは現在では到底考えられないような話である)。 8月上旬に近鉄は6位チームと10ゲーム差をつけられ、状況は絶望的と言えた。ここから近鉄の選手は発奮し、以降の6位チームとの直接対決を大きく勝ち越したこともあって奇跡的に最下位を脱出し、消滅の危機を免れた。 結局最下位となったのは大映ユニオンズで、大映ユニオンズは毎日オリオンズと合併し、大毎オリオンズとなった。 ミケンズ・ルール 1960年5月24日、駒沢球場での東映フライヤーズ戦。6-0と近鉄リードで迎えた9回裏の東映の攻撃で、近鉄先発のグレン・ミケンズは1アウトから毒島章一を四球で出塁させる。続く吉田勝豊は1塁ゴロに打ち取ったものの、これを1塁手が悪送球したために1・3塁となる。張本勲の2塁ゴロで吉田を2塁で封殺する間に毒島が生還。完封を逃したミケンズは山本八郎に2ラン本塁打を打たれてしまった。試合はこのまま近鉄が6-3で逃げ切り、ミケンズには自責点2が記録された。しかしこれに納得のいかないミケンズは翌25日の同カードの試合前、ネット裏記録席にパ・リーグ記録部長の山内以九士を訪ね、「吉田の1塁ゴロが失策でなければこれで2アウト、張本の2塁ゴロで3アウトとなるから、以降の失点は投手の責任ではない。したがって私の自責点は0だ」と抗議したが、山内は「記録は規則どおりで、君の主張は自己流に解釈したものだ」とミケンズの主張を却下した。当時の野球規則10.18(a)には「自責点は安打、犠打、犠飛、盗塁、刺殺、野選、四死球、ボーク、暴投によりプレーヤーが本塁に達するたびごとに記録される。ただし守備側と攻撃側と入れ替わる機会を逸したあとはこの限りではない」と明記されており、後半(太字)部分は「2死後、第3アウトとなるはずの走者が失策で生きた場合(例えば三振-三振-遊ゴロ失)、以降の失点は自責点とならない」と解釈されていた。この解釈だと「山本が失策で出塁した場合に、失点がミケンズの責任ではなくなる」となるのだが、山内が原文やメジャーリーグの実例を調査していくうちに実はこの解釈が誤りで、「アウトカウントにかかわらず、失策がなければ当然アウトとなるはずの走者が生きた場合(例えば三振-遊ゴロ失-三振と順序が変わっても)はそれぞれ1アウトと仮定して計算、仮定の3アウト目以降の失点は自責点とならない」とするのが正しいことが分かった。これだとミケンズの主張どおり、自責点は0となる。当時ミケンズは球団側と防御率による出来高契約を結んでいたため、このような規則には相当詳しかったといわれる。この解釈の変更は翌1961年から行われた。 シーズン100敗 日本プロ野球史で100敗という屈辱的な経験を味わっているのは1961年の近鉄のみ。140試合戦って36勝103敗1分け(勝率.261)で、優勝した南海ホークスから51.5ゲーム差の大差を付けられている。それまでのワーストは1955年の大洋ホエールズと1955・1956年のトンボユニオンズ→高橋ユニオンズの98敗だった。 この年の近鉄は10連敗を6月に1回、7月には1ヶ月で2回喫しており、他の参加5チームとの対戦成績も最高成績が東映フライヤーズと阪急ブレーブスに9勝。他の3チームには20敗以上を喫した。 シーズン最低勝率.238(130試合で29勝97敗4分)を1958年に記録している。ただしこの年は引き分けを0.5勝0.5敗として計算していたため、現在の勝率に換算すると.230となる。 パ・リーグの最少観客動員記録 1966年10月13日に開かれた藤井寺での西鉄ライオンズ戦は日本シリーズの読売ジャイアンツ対南海ホークス戦が同日に行われた影響もあり、観客動員はパ・リーグ最少の150人しか入らなかった。 巨人はロッテより弱い 1989年10月24日、東京ドームでの巨人との日本シリーズ第3戦、近鉄が3勝目をあげた試合後のヒーローインタビュー時の加藤哲郎の発言と言われているが、この通りに発言したわけではない。ヒーローインタビューでは加藤はふてぶてしい口調ながら、「ペナントレース(勝率1厘差、残り1試合で優勝決定)の方がずっときつかった」といった程度の発言しかしていない。その後、選手がドームを後にするまでの取材の過程で新聞記者の誘導により「今の巨人よりディアズ1人をマークしなければならないロッテの方が怖い」「こんなチームに負けたら、(ペナントレースで死闘を繰り広げた)西武やオリックスに申し訳ない」という発言が飛び出したが、前年最終戦で近鉄がロッテの粘りに苦汁を舐めた記憶と、加藤がその年個人的にロッテに苦手意識があった(後に加藤本人が述懐している)ことを受けてのものであり、加藤本人がハッキリと「巨人はロッテより弱い」と言ったわけではなく、マスコミが加藤の発言を歪曲したものである。近鉄が4連敗をくらった最大の原因は「加藤の発言に巨人の選手が発奮した」のではなく、データを分析すると第3戦の時点で既に近鉄打線の調子が下降してきており、それに第4戦で近鉄が苦手とするタイプの投手(香田勲男)に完封を喫し、それ以降打線がつながらなくなり殆ど点が取れなくなってしまったことである。また、ベンチ裏でヒーローインタビューを聞いて激怒したと言われている駒田徳広(当時巨人)も、ヒーローインタビューは聞いてなかったと懐述している。 逆転の近鉄 2001年9月26日、オリックス戦(大阪ドーム)での北川の代打逆転サヨナラ満塁本塁打による優勝決定に象徴されるように、近鉄はしばしば型破りな逆転劇を演じた。 1 2 3 4 5 6 7 8 9 計 オリックス 0 0 0 3 1 0 0 0 1 5 近鉄 1 0 0 0 0 0 1 0 4x 6 [審判](球)佐藤(塁)丹波 永見 前田 2001年7月17日のロッテ戦(千葉マリン)では5点リードされた9回表に一挙に8点を取って逆転勝利し、前半最終戦で首位折り返しを決めた。大村の逆転3ランで5点差をひっくり返し、さらにタフィ・ローズの2ランでとどめを刺している。後半戦近鉄はロッテに10戦全勝し、優勝への大きな足がかりとなった。 1 2 3 4 5 6 7 8 9 計 近鉄 0 0 1 0 1 0 2 0 8 12 ロッテ 2 4 0 0 0 0 1 2 0 9 1993年6月5日のダイエー戦(藤井寺)では2-8とリードされた9回裏に7点を取ってサヨナラ勝ち。9回裏の6点差逆転は日本記録。 1 2 3 4 5 6 7 8 9 計 ダイエー 0 1 0 0 3 1 0 0 3 8 近鉄 0 0 2 0 0 0 0 0 7x9 1997年8月24日のロッテ戦(大阪ドーム)では2回表までに0-10とリードされながら9回裏に追いつき、12回裏にフィル・クラークの適時打でサヨナラ勝ち。10点差逆転勝利は過去にこの試合を含めて3例あるが、パ・リーグではこの試合だけである(なお他の2試合はいずれも松竹ロビンスが記録している)。 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 計 ロッテ 5 5 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 10 近鉄 0 0 1 1 4 0 3 0 1 0 0 1x11 先発投手陣の頭数が足りない近鉄はこの日、本来は中継ぎで活躍する佐野重樹が先発したものの打ちこまれ、代わった南真一郎も打たれ、2回までにロッテに10点を奪われた。近鉄応援団は横断幕を裏返し、応援をボイコットすることで近鉄ナインに奮起を促した。 近鉄は2回途中からマウンドに上がった3番手・柴田佳主也が3回からの3イニング、6回からはルーキー・大塚晶文が2イニングをそれぞれ無失点に抑える。打線も3回に村上嵩幸、4回にクラークがソロ本塁打、集中打で5回に4点、7回に3点を返す。9回2アウトから2塁ランナー武藤孝司が3塁盗塁すると、ロッテ捕手・吉鶴憲治の悪送球を誘い、近鉄が土壇場で追いついた。 8回から投げ続けた赤堀は、12回までの5イニングを2安打無失点に抑えた。延長最終回となる12回、2アウト・ランナーなしから代打に立った山本和範が四球を選び、水口栄二とタフィ・ローズが続き、でクラークがタイムリーを放ちサヨナラ勝ちした。 試合終了後、当時の監督・佐々木恭介は「8回裏の時点で『追い付きはしなかったが、この追い上げは賞賛に値する』というコメントを考えていた」と告白、「こんな選手たちと野球ができて嬉しい。この勝利は必ずいい方向につながる」ともコメントした。近鉄はこの試合に負ければ最下位転落の可能性もあったが、この試合以降は佐々木の言葉どおり勢いを見せつけ、閉幕までを21勝7敗2分けで乗り切り、最終的に3年ぶりのAクラス復帰(3位)を果たした。 王貞治との奇妙な縁 2001年にタフィ・ローズがシーズン本塁打日本記録更新を賭けて挑んだダイエー戦で、ダイエーの選手が王貞治監督のシーズン本塁打記録を守るために勝負を避けるという事件が発生した。この事件に関し、近鉄フリーク作家として活動、今はパ・リーグサイドのスポーツ作家である元近鉄応援団長・佐野正幸は著書「プロ野球の世界に生きるということ(長崎出版)」で、タブーといわれた「世界の王批判」と取れる一文を発表している。 王貞治にハンク・アーロンの通算本塁打記録を破る756号を打たれた投手が、後に近鉄で抑え投手として活躍し二年連続リーグ最多セーブを記録した鈴木康二朗であり、更に王貞治の現役最後の本塁打となった通算868号を打たれたのが、マニエルとのトレードでヤクルトに放出されたかつての左腕二枚看板の一角・神部年男である。 助っ人外国人選手 近鉄は助っ人外国人選手の打者が活躍するチームとして有名であり、一時期の阪神ファンやロッテファンなど他球団ファンからは「近鉄は良い外国人選手を取ってくるのがうまい」とうらやましがられる事も多かった。近鉄の優勝と外国人選手の活躍は切っても切り離せないものがあり、1979年にはマニエル、1989年にはブライアント、2001年にはタフィ・ローズがチームのリーグ優勝と共にMVPに輝いている。外国人選手が3度MVPに選出されているチームは他にヤクルトスワローズのみであり、外国人選手がMVPを受賞した回数が2006年現在11回であるため、極めて多い。 他にもタイトルホルダーになった選手も多く、タイトルをとれなくても打率.280、20本塁打クラスの打者が多くいる。それら外国人選手を4パターンに分けられる。 日本の他球団から移籍してきたケース(代表例:ジョーンズ、マニエル、ブライアント) ブルワーズルート(代表例:オグリビー) レッドソックスルート(代表例:ローズ、クラーク) ドジャースルート(代表例:ギルバート、バーグマン、パウエル) 1.に関して、マニエルは守備の悪さがヤクルト・広岡達朗監督のチーム編成方針上問題となり、大砲を欲していた近鉄との間で神部年男とのトレードとなった。ブライアントはデービスの大麻事件による解雇により、急遽補強が必要となった結果の中日からの金銭トレードである。1のパターンは他にも1993年のレイノルズなども挙げられる(.298 18本 50打点と活躍したがその年限りで解雇された)。 2.は、1980年代の近鉄の主な外国人選手獲得ルートである。当時近鉄の友好球団がブルワーズであったことに起因している。 3.は、1990年代である。このルートで獲得してきた選手が、「毎年のように新外国人選手が活躍する」イメージを植えつける要因の一つとなったと言える。他にも1994-1995年在籍のスチーブンス、1996年在籍のC・D(ドネルス)などがいる。なぜレッドソックスルートと言うかというと、近鉄の外国人選手のスカウト市原稔がアメリカで懸命にスカウト活動をするうちに、独自にレッドソックスとのパイプを築きあげたことにある。レッドソックスルートで獲得してきた最後の選手は2001年在籍のフレディ・ガルシアとウィル・フリントである。 4.は2001年開幕時に、近鉄が野茂つながりでラソーダをアドバイザーに迎え、ドジャースとのパイプができたことで選手が来るようになったルートである。これにより3の長らく優良外国人打者を獲得してきたレッドソックスとのつながりは絶たれた。ギルバートは、当時近鉄の遊撃手で打撃を期待できる選手がいなかったため、ラソーダに良い選手がいないか意見を求めた結果獲得できた選手であり、当時3A通算1700安打を記録していた。バーグマンもシーズン途中からの入団であったが、オリックス戦を中心に活躍し、1年目は10勝を挙げた。パウエルも2001年に途中入団してきたが4勝5敗、防御率は4点台半ばとあまり良い成績とはいえなかったが、2年目に投手タイトルを総なめするほどの活躍を見せ、二桁勝利の常連として息の長い活躍を見せている。 選手を取ってくる先のチームカラーを反映してか、レッドソックスルートで獲得してきた選手は打者が活躍し、ドジャーズルートは投手が活躍する傾向にあった。ドジャースルートで獲得してきた打者はギルバートを除いて成功したと言える選手はいない。 近鉄で活躍する投手はアキーノ、マットソン、パウエルなど技巧派投手ばかりで、デラクルーズ、ツイドリー、バルデス、ロドリゲス、カラスコなどMAX150kmを越えるという触れ込みの速球派投手は、活躍しなかったどころか全く成績を残せなかった。 以下に近鉄に在籍した歴代の主な外国人選手を挙げる。 ピンカード(1955-1956) ミケンズ(1959-1963) ブルーム(1960-1964) ボレス(1966-1968) クレス(1967) ジョーンズ(1974-1977) アーノルド(1978-1980) マニエル(1979-1980) デービス(1984-1988) バンボ(1985-1986) グリーン(1986) オグリビー(1987-1988) ブライアント(1988-1995) リベラ(1989) トレーバー(1990-1991) レイノルズ(1993) スチーブンス(1994-1995) D・パウエル(1995) アキーノ(1996) ドネルス(1996) タフィ・ローズ(1996-2003) クラーク(1997-2000) マットソン(1998-1999) エルビラ(2000-2001) バーグマン(2001-2002) J・パウエル(2001-2004) ギルバート(2001) マリオ(2004) バーンズ(2004) バーン(2003-2004) カラスコ(2004) ネーミングライツ 2004年のキャンプ入りを目前とした1月31日、近鉄球団は2005年以降に球団名称を第3者に販売する「命名権」ビジネスを実施することを明らかにした。基本スポンサー料金を年間36億円とし成績に応じてそれを増減させ、スポンサーはチーム名やユニフォーム、球場への広告掲示などができるとした。市民に親しまれる球団にするためには球団本体だけに頼っては前進しないという考えを示した発案であったが、安易に球団名が変更されてしまうことに対し他球団オーナーなどプロ野球界から「野球協約に反するものであり認められない」などと反発が相次いだ。特に発言が球界の動向に大きな影響を与えるといわれた読売ジャイアンツオーナー・渡邉恒雄が猛反対したこともあり、球団名変更に必要なオーナー会議の同意を得られる目処が立たず、2月5日に方針を白紙撤回することを発表した。 ネーミングライツ売却は戦前の大東京軍がライオン歯磨をスポンサーに迎えて誕生したライオン軍(1937年秋季-1940年)、戦後パ・リーグ球団の高橋ユニオンズがトンボ鉛筆をスポンサーにしたトンボユニオンズ(1955年)、西武ライオンズの前身である太平洋クラブライオンズ(1973年-1976年)・クラウンライターライオンズ(1977年-1978年)、ロッテオリオンズ(1969年-1970年。1971年大毎からロッテに正式に譲渡)などの例がある。今回はこれが認められなかったため、「近鉄の球団消滅はこの時点で避けられないものとなってしまった」という声がある。合併問題が深刻化する頃には、一部球界関係者も「今から思えば、ネーミングライツの承認が最良のソフトランディングだった」と語っていた。 過去の合併計画 2004年にオリックスとの合併で消滅した近鉄だが、それ以前にも他球団との合併が画策されたことがある。 1965年オフには当時のオーナー・佐伯勇が広島カープオーナー・松田恒次と秘密裏に会い、合併を持ちかけている。佐伯の腹案では 近鉄と広島が合併 本拠地を広島県広島市に置き、セ・リーグ所属とする 球団事務所・フロントや首脳陣は両オーナー相談の上で決定し、新しい首脳陣が選手50人を人選 資本は近鉄・広島で半々 球団愛称は公募する と具体的な内容まで踏み込まれていたが、松田はかねてから純益金の分配制度改正(1952年以降のフランチャイズ制度以降は試合開催で得た利益は全額ホームチームのものになっていたが、それを1リーグ時代のホーム7、ビジター3の割合での分配に戻すというもの)をセ・リーグ会長・鈴木龍二に申し入れていたこともあって、佐伯の提案を拒否した。 前述のように、親会社である近鉄(当時関西急行鉄道)は、戦中に国策で南海と合併しており、そのときには既にホークスの前身である南海軍が存在していた(合併後に近畿、戦後は近畿グレートリングと改称している)。この合併が解消されてなければ、近鉄バファローズという球団は誕生すらしていなかった可能性があった(同一会社による複数球団の所有は禁止されている)。ただし当時としても無理があった合併で、戦時体制下での国からの命令でなければ両社は合併などしておらず、この合併は戦後すぐに解消されている。 幻の移転計画 本拠地の変遷は先述の通りであるが、他に下記のような移転計画があった。 1960年代には近鉄の東端である名古屋への移転を計画したが、愛知県を保護地域としている中日ドラゴンズの反対で実現しなかった。ナゴヤ球場及びナゴヤドームでは1990年代後半まで、年数試合の主催試合を開催していた。 1970年代に西本幸雄が佐伯勇に、近鉄沿線の花園ラグビー場周辺を整備して野球場を建設し、本拠地を移転することを進言したところ、「(お金が)幾らかかると思っているんだ」と返されたという。 1980年代初頭の藤井寺ナイター問題時には、東大阪市が受け入れに名乗りを上げたことが新聞報道されたが、藤井寺のナイター設備設置計画がまとまったことで立ち消えとなった。 ジャンル別一覧
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